ブログ

Blog

プロフィールについて

目次

プロフィールについて

~自然と自分と他人を切り離すことができ、本当の人生が生きられるようになる~
はじめまして、【自己肯定 HSPストレスフリーセラピー】を行っている心理カウンセラーの稲石まよです。
このブログ記事では、私のこれまでの経緯や詳しいプロフィールについてご紹介しようと思います。

[1]みんなから“いい子”だと思われたかった子ども時代

私は1982年生まれの、愛知県出身です。ごく普通の家庭の長女として生まれ、家族は父、母、祖母、弟、私の5人。
小学生の私は、仕切りたがりの世話好きで、典型的な長女気質でした。しかし、それはあくまで私の一面に過ぎません。常に先生やクラスメイトの顔色を伺い、空気の変化や人の感情に敏感な子どもでもありました。正義感が強く、孤立している子が他人事とは思えず放っておけなかったり…喧嘩の仲裁に入ったり…とにかく周りの出来事や感情の起伏に敏感で、常に忙しくしていた記憶があります。

先生や親にいい子だと思われたい、友達からは好かれたい。そんな思いが強く、自分の感情はいつもそっちのけ。周りの揉め事を解決したい一心で“平和主義者”として全力で過ごしていました。いい方向にだけ全力だったわけではなく、友達から言われた一言をずっと引きずったり、何か指摘されると数日考え込んだり…悪い方へ考えたときも全力で落ち込む。私はそんな子どもでした。

[2]友達の顔色や空気を読んでみんなと仲良くし、孤独を回避

中学生になると友人関係はさらに細かく、どんどん具体的になっていきました。居心地のよい子、苦手な子、気を遣う子、好きな子、憧れる子、可哀そうな子。自分の中でいろいろな分類ができた時期だった覚えがあります。
しかしそれに対する自分の行動はというと、どの友人でもすべて一緒。常に顔色を伺って発言する。気持ちを察する。その人のしてほしいことを先読みして行動する。場の空気を読んで、タブーは侵さないようにする。それが自分にとって「当たり前の行動」であり、大きなトラブルを起こすことなくみんなと仲良くし、孤独を回避する術となっていました。

[3]苦労をした母の期待に応えようと、看護学校へ入学

高校生になるタイミングで、価値観の違いから両親が離婚しました。私と弟は母親に引き取られ、3人での生活がスタートすることに。
このときの私は、看護学校に進学して看護師になることを決めます。自分の意志で選んだ仕事ではありません。いろいろと経験してきた母が、「自分が成し遂げられなかったことを、娘の私に期待しているのではないか」と察して、母の望みを叶えることを選んだのです。
また、弟が受験を控えていたのも理由の1つでした。女手1つで大学の受験費用や学費を工面する大変さを聞かされていたので、「金銭的に自立することがみんなにとっても最良の手段だ」と考えたのです。

[4]上下関係を知った社会人1年目は、緊迫する職場環境に萎縮

5年間看護学校へ通って看護師免許を取得した私は、新人看護師1年目を迎えることになります。命に直結する仕事ですので当然先輩の指導は厳しく、私は完全に萎縮してしまいました。
先輩は常に私の隣に立って、処置を無言で見てくれます。しかしそれを「監視されている」と思い込み、緊張する日々。見えない圧力から自分の力が発揮できず失敗ばかりでした。
また多忙な職場だったので、自分のために時間を使わせるのが申し訳なくて、わからないことも聞けません。医師や先輩看護師の表情を気にして「今の機嫌はどうなのか、忙しくてイライラしていないか」と観察しては、結局声をかけるタイミングを逃して失敗を繰り返す…。それでも「こんなことを話したら気を使わせてしまうかな」「仕事ができないのは自分だけかもしれない」と悩み、誰にも相談できません。「もう迷惑をかけたくない、失敗したくない、がっかりされたくない」とまた1人で考え込み、すっきりしないまま全力で仕事に取り組む。そんな日々の仕事を通して、確実にストレスが溜まっていきました。

[5]4児の母となり、目まぐるしく過ぎていく日常で感情のコントロールに苦悩

その後24歳を迎えた私は、計4人の男児を出産しました。子どもを授かれて嬉しかった反面「生活していけるのか」という不安を抱きながら、私は日々を過ごすことになります。

小学校に入学した長男の「初めての学校生活」への戸惑い。敏感気質でネガティブな次男の「心の心配」。2歳になりイヤイヤ期真っ只中の三男。生まれて間もない四男。とにかく考えることややるべきことが多くて、自分のペースで進められないことにイライラすることが多かったです。大きな声で叱り、その直後に1人反省会を繰り広げては、自己嫌悪に陥ってトイレにこもって1人で泣く。何度この行動をしたことかわかりません。
家族の前にいると特に感情の起伏が激しくなりましたが、私の夫はHSPではありません。今思えば、夫にとって「私の感情の波」は意味のわからないことだらけだったろうと思います。
「手の抜き方」も知らないまま仕事、家事、育児…すべてに対して全力で取り組んでいたので、あっという間に時間は過ぎていきました。誰かに頼るという発想もなかったので、「がむしゃら」という言葉がぴったりの日々だったと思います。

[6]“夫婦の価値観の違い”を受け入れられず、離婚を考える日々

この頃から、夫婦の会話もかみ合わなくなっていきました。その理由はさまざまです。例えば、夫の休日に天気がよかったので「布団を干しておいて」と私が頼んだことを夫が根に持っていたり、家事や育児には協力的ではなかったり。私が考えていることを伝えても理解されておらず、夫の言うことや考え方もまったく理解できませんでした。

「この人とは価値観が違いすぎるから、一生理解してもらえない」
「この人の言うことが理解できないし、こんな考えは受け入れられない」
「自分にも余裕がないのに、なぜ夫の世話までしなければならないのか」
「このままいいように利用され続けるのではなく、その労力を子どもに向けたい」
「毎日不機嫌な顔で帰宅して、自分だけが疲れているとでも思っているのか」

同じ空間にいることで夫の表情や言動、空気を感じては苦痛に感じる日々。「まるで子どものよう」という思いから、離婚を切り出したこともありました。

[7]HSPに適さない職場環境で仕事を続ける

育休が明けた私は救急看護師として職場復帰しましたが、新しい環境へうまく適応できませんでした。

緊急時は全員で協力体制を取らなくてはいけません。1人の命を、全員で協力して救う。迷っている時間はないので、自分の役割を瞬時に判断して行動しなければなりません。
わかりやすく例えます。緊迫した状況の中で、やらなければならないことが10個あったとしましょう。Aさんは2と4、Bさんは7と10、Cさんは8と9、Dさんは1と5を担当しています。このときやるべきことは、「冷静になりながら、誰も担当していない3と6を見つけて、処置に取りかかる」ことです。「同じ担当はいらない」というのが、私にとって最大の難関でした。

「一度にたくさんのことをしなければならない」
「差し迫った状況に急かされる感覚」
「責任の重圧」
「自分の判断に自信が持てない」
「医師から大きな声で罵声を浴びせられる」

こんなことが、日常的に繰り返されます。育休で3年近くブランクがあり、もともと容態が安定している部署で働いていたため、緊急時の状況は衝撃的でした。
新人のつもりで1から勉強し直し、同部署で働く人からのアドバイスを受けるように。「とにかく今の状況を打破しなくては」と、仕事に費やす時間はどんどん増えていきます。私は毎日「誰のために何をしているのか」と自問自答を繰り返すようになりました。本来自分がしたいことは何なのか。今自分がしなければいけないことは何なのか。子どもたちは今幸せなのか。常に頭をフル稼働させて、そんなことを考えていたのです。
考えること約4年。気づくと私は、常に寝不足のような感覚に悩まされるようになっていました。睡眠時間は確保しているものの、熟睡できていないのか、仕事中緊張状態に陥るたびに眠気が襲ってきます。「まさか現実逃避か?」「ナルコレプシーか?」と当てはまりそうなものをインターネットで検索しては悩む、という悪循環にはまっていきました。
また、突然血尿が出たこともあります。そのとき膀胱炎はストレスからくることもあるということを知り、「少し自分にストレスがかかっていたのかな」と、考えるきっかけになりました。

[8]マルチタスクが苦手なのに完璧主義な自分。複数の仕事がこなせる他人と比べては落ち込んだ

仕事を続けて新人指導をする立場になった頃、仕事が重複することが多くなり「マルチタスクが苦手な自分」にまだ気づいていなかった私は、かなり仕事に苦戦しました。

1つのことに集中すると、ほかのことに気が回らない。しかし、頭の片隅では「あれもやらなきゃ」と覚えておかなくてはいけない。
まんべんなくやればいいのに、1つでも納得がいかないと時間も忘れてやり続けてしまうため、ほかのことは進まない。なのに1つ片付くと、また次のことが増える。また、上司の言うことに納得がいかないことや、自分の苦しみが新人になかなか理解してもらえないこともありました。

「なぜバランスよくできないのか」
「ほかの同僚たちはこなせているのに」
「能力がないと思われたくない」
「でも、自分の納得いく内容で仕上げたい」
「ここをもっとこうしたら、もっとよくなるのでは」

次々といろんな考えが出てきて、キリがありません。「こんな中途半端な状態で次にはいけない」と思っているうちに、もう1つの仕事は期限が迫ってくる。すると、「いい加減やらなきゃまずいな」「こうした方が喜んでもらえそうだな」「これはこうしよう、でもこの方がいいかも」「そうだ!あれはどうなっていたんだっけ?」今度は別の仕事で無限ループが繰り広げられ、無事期限内に仕事ができるとすぐに次の仕事が…。

余裕のない自分と意識の高い同僚と比べては落ち込み、新人との関係もうまく築けません。同僚とは何でも相談し合える関係でいたい。上司からは頑張っていると認められたい。誰とでも仲良く、嫌われないように言葉を選んで…もはやありのままの自分はどこへ行ってしまったのやら。
眠気はどんどん増すばかりで、この頃から「考えるのがもう嫌だ!」と、少しずつ自分の特徴やクセを自覚し始めるようになりました。

[9]自分で自分を追い込み、楽しいはずのグループラインが苦しくなる

仕事をする一方、子どもの保育園で私は役員をすることになりました。一丸となってとても盛り上がる役員は、行事には常に全力。これがまた楽しい反面、自分を追い詰めることになっていきます。当時はまったく気づいていませんでしたが、今思えば自分の思い込みでずいぶん頑張りすぎていました。
役員は、仕事をしながらも“保育園の役員”として膨大な量の役割を担っていました。みんな協力的で、グループラインでは「私は今日これをしました」という報告や、「みんなで協力して成功させようね」という内容がよく書き込まれます。そんな連絡に対して、私は気づかないうちにプレッシャーを感じるようになってきました。仲良しメンバーとの楽しい役割のはずなのに、楽しめない自分がいたのです。

「みんな自分と同じように、仕事をしながら睡眠時間を削って頑張っているんだ」
「こんなに盛り上げてくれているんだから、みんなのノリに合わせて空気を乱さないようにしよう」
「これをしたら、みんなはもっと喜んでくれるかも」
「この状況で、役員の中で今動けるのは私だけだから、私がやるしかない」
「私の苦手なことはほかの人が頑張ってくれているんだから、何か頑張らなきゃ」
「私の得意なことでみんなの役に立てなかったら、申し訳ない」
「ここで妥協したら、みんなががっかりするんじゃないか」

などなど…家事や育児、仕事のかたわらにそんなことを考えていました。あの頃の私は、完全に“境界線”を見失っていたと思います。

[10]仕事へ体が拒否反応を示して気づいた、心のSOSのサイン

仕事も役員も。そんなギリギリの状況がいつまでも続くわけはありませんでした。ある日、仕事中に「今までできていたこと」「今まで知っていたこと」「できて当たり前だったこと」が、突如できなくなったのです。ショックを覚えたのと同時に、「また迷惑をかけてしまった」「なんてダメな人間なんだ」と感じ、周りから絶望されたことの恥ずかしさが一気に込み上げてきました。

信頼のおける人の勧めもあり、ついに私はカウンセリングを受けます。カウンセリングの場は泣きながら自分の思いを訴え、感じていたことを全部吐き出せたような気がしました。しかし家に帰ると、いつもの思考が始まります。別のカウンセリングを受けても結果は同様でした。
そこでメンタルクリニックへ通院し、薬物療法を試すことにします。睡眠薬で熟睡時間を確保し、日中は精神安定剤で気持ちを落ち着かせる作戦です。しかし眠気は増すばかりでした。集中力は激減し、薬の効果で一時的に悪い思考は緩和されるものの、切れればいつも通り。根本は何も変わっていなかったのです。「薬は必要な能力まで奪ってしまう」と感じました。

何もできなくなった私を、家族はそっとしておいてくれました。仕事も休みましたが、そのときも私の思考は止まることなく動き続けています。

「仕事もできない、家事もできない何のためにここにいるんだ」
「これじゃ迷惑しかかけていない」
「そもそも生きている意味はあるのか」
「死ぬとどうなるのか…家族がトラウマになるかも」
「家族に衝撃を与えない、いなくなり方はないか」
「もう何も考えたくない」
「楽になりたい」
「考えることをやめられない」
「最悪な考えがどんどん出てくる」
「なんで考えが出てくるのか」

無限に考え続けてらちが明かなくなり薬を飲んで眠るが、目が覚めるとまた考え始める…。悪いことは不思議とどんどん湧いてきて、いつまででも考え続けることができました。

[11]大好きな空手と子どもを通し、心を見つめ直すきっかけとなる

辛い状況は続きましたが、ある日私はメンタルトレーニングに出会うことになります。きっかけは子どもの空手の試合でした。
勝負の世界。広い会場。相手選手との間の緊張感。親や指導者からのプレッシャー。負けられない。でも負けるかもしれない。怖いという自分の気持ちとの闘い。
子どもたちは小さな体でこれだけの強い刺激に耐えていますから、本領が発揮できないのは仕方ありません。しかし発揮できている子もいます。

これまで空手の指導をしてきた自分が、わが子のために、この会場で何1つしてあげられない。不甲斐ない。何かしてあげられることはないか。そう考えて行きついたのが、心のサポートだったのです。

[12]“深く処理する能力”が徐々にいい方向へ進み始め、自分がわかり始める

メンタルトレーニングを学習していくうちに、なぜか私は「自分のこと」を少しずつわかり始めました。1つひとつに学びがあり、変わっていく自分の思考に興味が湧く。毎日興味のある本を買い漁り、狂ったように読み続けました。

「あのときは、こう考えればよかったんだ」
「人との境界線は、こうしたらよかったんだ」
「悪い思考のクセがついてしまっているんだ」
「こう言われたら、こう思えばいいんだ」

過去の出来事を振り返るたび、こんな発見が続きます。
友人に相談されたときは、自分の得た知識を最大限に伝えました。そしてそういった体験が「大切な人が自分と同じ苦しみを味わう前に、なんとか阻止したい」という思いを一層強めるようになっていきます。
アウトプットを重ねるにつれ、気づかないうちに私は変化していきました。辛かったことが考え方ひとつで辛くなくなる。「楽しい」「面白い」と思えることが増えて、マイナスに考えることが減っていったのです。

[13]HSP、HSC、エンパスと出会い、今までの“辛い人生”の謎が解ける

さらに学びを深めていくと「HSP(ハイリー・センシティブ・パーソン)」という言葉に出会い、HSP診断のチェックリストをやってみることに。結果はほぼ当てはまりましたが、「何か違う…」「何かしっくりと来ない」と感じていました。このときは、なぜそう感じるのかはっきりとはわからないままに終わってしまいます。「HSP」に出会ったと同時に、私は次男が「HSC(ハイリー・センシティブ・チャイルド)」であることに気づきました。こちらは本当にしっくりきて、「性同一性障害ではないか」と思っていた疑いが一気に晴れたのを覚えています。

それから「HSP」関連の本を読み漁っていくうちに、「エンパス」というキーワードに出会いました。エンパスとは「何かに共感する力が強い人」のことで、以前行ったHSPの診断では、私はHSPの特徴の中でも特に「共感力」が異常なまでに強かったです。メンタルトレーニングから心理学を学んでいく過程で、なんとなく「私はエンパスなのかな?」と感じるようになっていきます。

これまで私は、ドラマや漫画、ニュース、見るものすべて「自分の気持ち」のように感じてしまいました。それも主人公だけにとどまらず、登場人物全員に対してそれが繰り広げられます。「テレビを観る際は、高い集中力を要する」という私の特徴は、感情一体型エンパスの特徴と完全に一致。
「私が感じていることは、みんなが感じていることではないのだ」ということに気づくとしっくりきて、今までの人生で起きたことすべてに納得がいきました。

※HSPにとっては「出来事の記憶」よりも、「そのときの感情の記憶」が強く残ります。

[14]共感することが当たり前だった自分が、共感されることの喜びに気づく

そんな矢先私は友人が辛い状況になっているのを目の当たりにして、話を聞くことにします。聞いている間は「この感じ、どこかで感じたことがある」と感じていました。人に感情移入しやすい体質の私にとって、“共感”は日常茶飯事のこと。しかしこのときは、デジャヴのように鮮明に記憶が蘇りました。友人の話から感じたものは、私が数年前に体験したことそのものだったのです。友人はなかなか悪循環から抜け出せず、私よりもずっと前から苦しんでいたようでした。
「私ならここから抜け出させてあげることができる」という妙な自信を抱くと同時に、「こんなに身近にHSPの人がいたなんて」と嬉しかったのを覚えています。

自分以外の人の出来事を、自分のことのように感じてしまう。自分の特徴や人との“境界線”を知ったことで、私は自分自身とうまく付き合えるようになりました。
その友人とも互いに理解し合い、共感し合い、今でも互いの異なったHSP気質を有効に共有しています。

[15]理想のカウンセラー像ができあがる

私が「プロのメンタルトレーナー」の意識を持ち始めた頃、あるカウンセラーと出会いました。それまでカウンセラーには「話を親身に聞いてくれる人」という概念しかありませんでした。しかしその先生は話を聞くことはもちろん、私がメンタルトレーナーとして学んだこともカウンセリングで実践していたのです。
そのとき、「それはメンタルトレーナーの仕事じゃないの?」という疑問が湧きました。そして私の思考は「カウンセラーって何?」に行きつくことに。私はその先生の講座を受けていくうちに「メンタルトレーナーの肩書」にこだわりすぎていたことに気づきました。そこからさらに学びを深め、「内向型」と「外向型」を深く知るきっかけを得ることに。

「私って内向型なんだ」
「そりゃ人付き合いが積極的にできなかったわけだ」

パズルのピースが1つずつはまっていくような感覚でした。そしてそのとき、かつて悩んでいて辛かった自分が一番出会いたかった、“理想のカウンセラー像”ができあがったのです。

[16]自己肯定感を取り戻し、人との境界線を知ることで、自分自身の本当の人生を歩み始める

現在私は、まったく価値観の合わない非HSPの夫、反抗期真っ只中の中学生の息子、小学5年生HSCの息子、“自分”を持っている頑固な小学4年生の息子、甘えん坊の小学1年生の息子と6人暮らしをしています。

“自分”やHSP、人との境界線を知り、自分らしい本当の人生を生きられるようになってからは、育児や人付き合いが格段に楽になりました。
そして、“夫との境界線”がわかって夫婦の関係も安定しています。仕事では職場の人間関係が楽になり、HSPを活かして自分の能力を発揮できるようになりました。「自分の強みを活かす」ことの生きやすさを実感しています。
また悪循環を抜け出したことで、下がりきった自己肯定感も取り戻すことができました。職場でも家庭でも、「ゆったりした安心できる環境」を自分でつくれるようになっています。

[17]カウンセラーとして、HSPの自分にしかできないことを発見する

昔の私は、周りへの迷惑や自分への評価を気にして、「助けて」の一言が言えませんでした。
私は“自分の人生”を生き始めるのに時間がかかりましたが、今悩んでいる人には、あのときの自分のようになってほしくないと思っています。

もしすでに辛くなっているのなら早くそこから抜け出してほしい。今の人生が辛い、生きづらいと思っている人には時間を無駄にしてほしくない。しかしそのためには、ほかの人の力が必要です。私は自分で考え、悩み続けて遠回りをして、何人かの人の力を借りながら、時間とお金をかけてきました。

自分だけより、人の力を借りれば何倍も早く闇から抜け出せます。正直もっと早く周囲を頼ればよかったと思いますが、そのときがあるからこそ、今があるのでしょう。あのとき行動していなければ、その先も辛い数年を送っていたかもしれませんから。

そもそもHSPの人はなかなか「助けて」が言えません。「助けてと自分が発することで迷惑がかかる」「自分はまだまだ頑張っていないからもっと頑張れる」と思ってしまうからです。
だからそんな人のために、私は自分から“自分の存在”を発信していきます。どうか、今悩んでいる人に【Best Life Labo.】を見つけてほしいです。

自分が短所だと思っていること。辛さの原因であるHSP気質。それらをいち早く、強みに変えていきましょう。
同じ気質を持ち、実際に強みに変えることができた私が、あなたの力になります。

[18]「もしかしてHSPなのかな?」と感じている人が、本当の人生を生きる方法

私は今、HSPのよさをたくさん知りながら、喜びや楽しさを人一倍敏感に感じ取れる人生を送っています。過去の私のように1人で抱え込んで、無限ループから抜け出せなくなる前に、うつ病になる前に“自分の特徴”に気づいてほしい。そしてHSPで苦しむのではなく、HSPを楽しんでほしいと思っています。

HSPは「人のために何かしたい」という強い思いを持っていますが、それは誰でも持っている能力ではありません。そもそもHSPは5人に1人、人口の20%しかいない存在。
そんな特別なあなたの能力を、最大限に活かしてほしい。人に左右されず、“人との境界線”を知って、自分の本当の人生を生きてほしい。生きやすい生き方を、自分の力で切り開けるようになってほしい。そして自分の自己肯定感を高めてほしいと願っています。

HSPは人一倍感受性が強いため、楽しいことや嬉しいことにも敏感です。
そんな魅力に気づくためのお手伝いをして、1人でも多くの方が「繊細で敏感な気質を持って生まれてよかった」と思えるようサポートします。

自分のことを犠牲にしてまで相手のことを優先してしまう。
人の顔色や気持ちを敏感に察知しすぎて、うつ気味の会社勤めの方へ。

HSP気質でストレスが溜まっている方のための、【自己肯定 HSP ストレスフリーセラピー】を、ぜひご活用ください。

ブログ一覧

ページの先頭へ